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有志による翻訳
>扬州网「《扬州殇》网上走红 歌词以姜夔“第一人称”来写」
新聞「揚州晩報」 9/24 A11面に掲載
「揚州殤」がネット上で人気歌詞は姜夔の一人称
近日、「揚州殤」という歌がネット上で密かに流行し、少なからぬ若者が夢中になっている。多くの人は知らないだろうが、この曲の歌詞は南宋の詩人の姜夔(きょうき)の一人称で創作され、その歌い手である「洛天依」は本当に存在する人物ではなく、ソフトウェアが歌う歌なのだ。
古風な「揚州殤」がネット上で人気
ネットユーザーの製作だが、歌の曲や歌詞やPVはことのほか優れている。曲調は色濃い中国風で、古文の歌詞にも含蓄があり、勇壮な感じがする。しかし「殤」(注:若死に)の字に物悲しさがあるのは、この歌の歴史背景がきっと揚州が経験した戦乱と関係があるからだろう。あるネットユーザーは、揚州に行ったことはないが、この歌を聞いて、揚州が好きになったと言う。
最も意外なのは、この歌は人が歌ったのではなく、歌い手の“洛天依”は実は虚構のキャラクターで、彼女の声は、人の音声を基にして、コンピューターソフトによって編集と処理が行われたものなのだ。
歌詞は姜夔の「一人称」で書かれた
この歌の内容は何か。作者の「@浓稠铅笔酱」は曲の発表後にこう書いた。「(この歌は)南宋の詩人で音楽家の姜夔の一人称で創作した曲で、『国破れて山河あり』の状況の中で、主人公が『筆で敵を伐とう』とする勇壮な気持ちを表しました。」
では、歴史上の姜夔の目には揚州はどのような都市で、当時の状況はどうだったのだろうか?
「姜夔が来た時は、まさに宋と金の一進一退の戦いの最中で、揚州は戦場でした」揚州の文化学者の韋明鏵は言う。「だから彼は来たとき、咲き誇る芍薬と名高い二十四橋を見たはずです。しかし芍薬は誰のために咲くのでしょう?花の主人はどこへ行ったのでしょう?このように、都市の生活が破壊され、人々が流浪する悲惨な状況でした。」
韋明鏵の紹介によれば、揚州は宋代に非常に重要な地位にあり、北宋時には揚州の文化は隆盛し、蘇東坡や欧陽修らも揚州の太守を務めたことがある。南宋時には、戦争が続いたため、揚州は軍事要塞と変わった。「北宋が滅亡し朝廷が南遷した時、揚州に南宋の小朝廷を作ろうとして、揚州に一年余り逗留しました。しかしこの後金軍が淮河に至った除く、宋の朝廷はまた南へと逃亡を続け、鎮江そして南京、最後に杭州へ至りました。」
韋明鏵は、姜夔が揚州に来た時は既に揚州は金軍に攻め落とされ、満身創痍だったと語る。彼の傑作『揚州慢』は、まさに彼が目撃した戦争に奪い尽くされた揚州の荒れ果てた光景から生まれたものだ。詩の中で彼は昔を偲び、今の荒涼を嘆き、昔日の繁栄を思い起こしている。この「揚州殤」が表現する境地は、確かに当時の姜夔が見た姿と符合すると韋明鏵は考える。
記者邵偉
編集責任:陳書戈
>新聞「揚州晩報」 9/24 A11面

